名もない飯2005/10/23 09:12

 最高の贅沢を味わっていたんだなぁ~と、今になって思う一時期がある。それは、高校1年から家を出るまでの10年弱の間のこと。

 その年の春、専業主婦だった母親がフルタイムの仕事で復帰することになり、ついては子供が家事全般にわたって協力すること!というふうに家族会議で求められたのである。協力すれば小遣いに反映するとか、その辺のこざかしい裏工作はあったんだと思う。とにかく食事から掃除、洗濯、当時飼っていたカナリアの世話にいたるまで細かく当番表を作り、目につくところに掲示した。当番厳守で、出来ない日は他の人に事前に代わってもらわねばならない。

スタートした当初は、年若い者は作るのは大変なので皿洗い担当になったのだが、今考えると作る人は日替わりだが皿洗いは毎晩なのだからして、部活で疲れて帰ってくるのに、その夕飯後とは、結構大変だったろうと思う。 3年たって、年少者も食事作りに参加と相成るが、おかずを作り上げ、さて食べよう!という時になって「ご飯のスイッチ入れ忘れた」なんて悲惨ことが、当初はあった。

台所に箱があって、そこに親がお金を補充しておいてくれる。担当の者はそこから食費を持ち出し、学校帰りに買い物をすませて料理を作る。もちろん今まで誰もまともに料理を作ったことはなかったので、料理本を買い、それを見ながら作成する。 我が家には一部の魚介類にアレルギーを持つ者がいたためか、肉がなければご飯じゃないという風潮があったようだ。毎晩毎晩、これでもか!というほどの、肉料理オンパレード。ハンバーグ、カレー、八宝菜、マーボ豆腐、鶏のから揚リヨン風、ビーフストストロガノフなど、とにかく自分たちが食べたいメインディッシュが毎晩一品豪勢に食卓に並び、あとはサラダなんかがちょちょっと添えられている。そしてご飯ですな。

材料費には糸目をつけず、本にあった食材を分量通りに用意する。肉屋でも、八百屋さんでも、あっという間に売り場の人と顔見知りになり、お得意さんになった。 作った料理を残す者は誰もいない。完食で、いつも鍋&フライパンの底はからっぽ。

自分が食事当番になると、やたら量が少なかったり、メインたりえないおかずだったりで、 「ちっ、失敗しちゃったぜい」 という日もあるけれど、意外なヒットもあり、リクエストが寄せられる名誉なこともある。(ちなみに当時の私のお得意はマーボ豆腐。他の者は八宝菜、あとは柔道部直伝のタレに凝った焼肉というのもあった。)

自分以外の者の作った料理は、それはそれで大変ありがたく美味しく、今思えば毎晩シェフの異なる、贅沢の限りを尽くした夕飯であった。(しかも若者好み) 長く作っていれば、料理の腕も自然とあがっていく。おかげで、各々大人になって家を出て暮らすことになっても、料理や家事で途方にくれる者は一人としてなく、その点は非常にありがたかったと今では思っている。

当時働き盛りであった父親は、お腹が出始め、本当は魚中心の質素な和食料理が健康には良かったのだろうが、子供が作ったものに、文句ひとつ言わなかったのは、えらい。 まぁ帰りが遅く、家族とは別に食べてきた事がほとんど、という気もするが。

 あるとき、その日の料理担当の者に、今日の夕飯のメニューはなんだ?とたずねると、 「名もない飯」だという。 ちょっと寂しげで、やる気もなく、力のない名称である。 それは何かと問いただすと、  料理本を見て作らず、本なしで、冷蔵庫にある食材で適当に作る料理のことだという。結構これがうけて、しばらく我が家では「名もない飯」という名称が飛び交ったものだ。当時は「名もない飯」で何度も大爆笑したもんだ。あの笑いは、いわゆる内輪ネタってやつなんだろうなぁ。このおかしさを皆さんに文章でお伝えすることは、ちょっとできそうもないもんね。

母親も、もちろん食事当番に入っていたのだが、仕事が忙しいとか疲れたとかで、帰宅すると店屋物となり、時には奮発して、うな重を取ってくれたりするのも楽しみのひとつ。 母が当番なのに遅い日もあったが、皆、店屋物を楽しみに、料理を作ってあげることをせずに、じっと指をくわえて待っていたもんだ。

今現在、私が家族と食べている夕飯は、魚が主流で、副菜にひじきの煮たのとか、高野豆腐とか、小松菜の煮びたしとかが1、2品くらい細々とあって、あとは納豆にご飯といった、極ありきたりの平凡な和食メニュー。 まぁ、あの当時の豪華メニューを今、毎晩食べていたら、血糖値は上がるわコレステロールはあがるわ・・・きっと大変だろう。 あの頃は、そんな生活習慣病の心配がまったくなかったわけで、そういう意味でも本当に幸せな一時期だったとしみじみ思う今日この頃です。